山鳥毛が越後に隠居を決めたら姫鶴も同道してくれるんだけれど、ずっと都にいた古馴染みには色んな景色を見せたいわけで、琵琶湖→日本海ルートじゃなくわざわざ太平洋岸→関東平野横断ルートを選択、二人でじっくり富士山を眺め三島大社に詣で、鎌倉を歩き利根川を遡上した。姫鶴がめちゃくちゃ旅慣れているので関所を迂回する抜け道を多用し夜間の移動もこなすなかなかのハードワークだったが山鳥毛も元は丈夫な人なので付いていける。むしろストレスから解放されて都にいたときより元気だった。途中で足利学校に立ち寄って、飛び入りで講義する羽目になるちょもさんはいると思います。
ご機嫌の山鳥毛と姫鶴が一宿一飯の礼に地侍の家の屏風にさらさら~っと描いた絵(絵:姫鶴、賛:山鳥毛)は後々なんでも鑑定団の出張鑑定に出されて凄まじい値段を叩き出した。
小豆さんは一人前になってすぐに越後に行ってしまったので、隠居したらそっちで暮らすと言う二人を数十年単位で待つことになったのだが、寺暮らしのときも庵を編んだときもいつ二人が来ても良いように場所を確保して待っていてくれた。小豆曰く「すぐに失脚してしまう可能性もあったからね」とのこと。
山鳥毛は法灯を維持することに、姫鶴は絵に、禅僧としての生を賭けたわけだけれども、ひとり野に下り一意坐禅に取り組む小豆さんこそ真の禅師とふたりとも思っているし尊敬している。だから小豆さんと一緒に座禅に打ち込む生活は嬉しかっただろうなあ……
禅寺は役職を持ち回りでこなすそうなので(鉄鼠の檻で得た知識)、数十年ぶりに典座(調理担当)を担当するちょもさんに「きみ、かゆもたけないの…?」ってドン引きして言う小豆さんはいる。ちょもさん料理はできないけれど副寺と維那(会計と庶務)は完璧にこなせるから許してやってほしい。事務とか書類作成系はいくつになってもこなせると思う。(ゲームでも報告書を仕上げるのには積極的だもんな、トップの癖に……。男士としては正しいけれど本来なら秘書の仕事でしょ)
逆に小豆さんは今まで一人暮らしで贅沢もしないから帳簿とか書いたことないんじゃなかろうか。肌感覚で赤字にならない生活をしてそれでまわしてきたから、帳簿をつくる羽目になって初めて同居を後悔するといい。
姫は面倒がりつつもちゃんとやりそう。納得さえすればしっかりこなすタイプだと思う。
50〜60代で新しい環境に入り、かつ喋りの相手にも困らず粗食と家事と座禅の生活ってボケ防止にすごく良さそうだ。ちょもさん(都の大寺院の前住持)と姫鶴(津々浦々に名前が轟く名画僧)を訪ねる人も多いのでなかなか刺激のある生活をしている。しかも姫は定期的に博多に行っては日光くんの話を持ち帰ってくるので実は話題には事欠かない。日光くんは一回姫に引っ張られて直江津に来たけれど、致命的なまでに船との相性が悪かったので往来はその一回きりとなってしまった。それ以来姫とたまにちょもさんが会いに行った。
これはちょもさんが本格的に倒れるまでは矍鑠とした爺さんたちの共同生活だったな。
絵師の姫はバイタリティに溢れてるので、香住の応挙寺みたいに襖絵から欄間まで全部プロデュースしました!な凄い寺が直江津に爆誕した可能性がある。雪舟と等伯を足して二で割った絵師が総合プロデュースした寺、それは人類の宝なんよ。しれっとちょもさんも掛け軸だのなんだの残してる。姫鶴の群仙図、子供が大層かわいらしく、動物が生き生きしていると思われる。これは余談だけど雪舟の慧可断臂図と天橋立図と牧谿の猿を描く姫は解釈一致です。ああいう画風だといい。
坊主が三人集まって暮らしてるんだから流石に仏像の一体もあると思うんだが、この人らどの仏を拝んで暮らしているんだろう。禅寺はお釈迦さまを本尊にしてるところが多いけど、そもそも本尊にあんまりこだわらない宗派らしい(座禅で悟りを目指そうって宗派なんだからそれはそう)んで、地蔵菩薩とかかなあ……。地蔵さまとか観音さまとか衆生救済に強い菩薩に惹かれそう。禅僧だが。新しく彫られたものじゃなくて、もともとは越後に行った小豆さんが最初にいた寺の脇侍か塔頭の本尊を移して安置しているといいな。木彫の、金箔なんかとっくの昔に剥がれ落ちてる寄木造りのもの。こう言っちゃ何だけどたいして出来が良いわけでもないお地蔵さまを毎日拝んでいるといいと思います。
元ネタ的に毘沙門天も考えたんだけど、本尊にしてる寺って真言宗のイメージが強いんだが(謙信も真言宗だし)禅宗寺院の例ってあるのだろうか。
ここは最初に山鳥毛が亡くなって、次に姫鶴。姫とちょもさんが生きていた頃はふたりとも有名人だったので頻繁に訪問者がいたんだけど、小豆さんがふたりを看取って遺品を近在の寺に預けてからはめっきり訪れる人がいなくなった。周りも小豆さんの邪魔はするまいと思って人の往来も最低限にしているうちに、庵でひっそり亡くなったとも越後国を托鉢してまわるなかで亡くなったとも言われる。没年不詳。
共同生活については山鳥毛も姫鶴も詳細を書き残さなかったのでよく分かっていない。小豆さんに関する文字資料は山鳥毛の日記と手紙、あとは地元の寺に残された山鳥毛最晩年作の漢詩で禅僧として称賛されている姿だけ……
三人で暮らした庵はもちろん現存しておらず、跡地と伝わる場所に大正時代に作られた苔むした石碑があるだけだったが……、最近教育委員会が真新しい解説付き看板を立て、Google マップにも乗るようになりました。
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