山鳥毛
政治力バカ高臨済僧。五山と思いきや林下の住持。寺を復興させるためなら誰だろうと利用する、春浦宗熙みたいな感じがいいです。漢詩が得意で字も上手い。一日と間を開けずに残した日記は貴重な中世寺社史料になった。小豆と姫鶴とは同門同期。声も良ければ顔も良いという完全無欠の美僧でならし、やたら男色の逸話も残したが、生涯だれともそういう仲にはならなかった。大病を得たのをきっかけに隠居して小豆のいる越後の寺に引っ込んだ。
姫鶴
雪舟と等伯を足して二で割って伊能忠敬の脚力を得た画僧(文化人の最強概念では……)。各地の大名のところで逗留しながら全国をぶらついている。滞在するたびに筋の良い若者を見つけては絵を教え、気が向けば都の大寺院顔負けの作品も残した。ちなみに当時の姫鶴の地方滞在に関する日記の記述が室町文化の地方伝播関連で共通テスト日本史Bに出題された。もとから絵を描くのが好きだったが、襖の桐紋を雪に見立てて一気呵成に冬の寺の情景を描いて(無許可、めちゃくちゃ怒られた。等伯の高台寺障壁画参照)才能を認められ、寺から全面バックアップしてもらえるようになった。
気ままな画僧生活をしているせいでたまに政争に巻き込まれるが、やばくなるとどこからともなく山鳥毛から助けが入る(そしてキレる)。ただキレる割には頻繁にちょもさんにお手紙を送っては各地の情報を教えてくれた。自分が山鳥毛の助けになるのは良いけど助けられるのは嫌。ちょもさんが病気で倒れたときは京都に飛んできたし、部屋の襖に越後の情景も描いてくれた。それに生涯唯一描いた頂相は山鳥毛をかたどったもの。
小豆
典座のレジェンド。こいつのつくる飯はなぜか美味い。都は肌に合わず越後の寺でのんびりやってる。公案嫌いの臨済僧だが教えるのは嫌いじゃないようで、身分関係なく現地のひとに禅の教えをかみ砕いて伝えている。戦災孤児謙信くんを育てているが、見込みがあるので大きくなったら山鳥毛のところに送ろうか迷っている。足がとんでもなく速いうえに怪力だったおかげで猿神退治とか盗賊退治とか(今昔物語の寛朝和尚のやつ)、やたら力持ちのお坊さんの昔話として越後に名前が残った。ちょもさんが手紙を寄越すたび「私も君のところで座禅三昧の暮らしをしたいものだ」って言ってくるからさっさと都に見切りをつけてこっちに来ればいいのにと思っている。姫鶴はたまにやってきては「隠居するならあつきのとこかなぁ」って言っているのでそのつもりでいる。(本当にそうなった)
日光
武家の嫡子だったが、山鳥毛のもとに参禅するうちに感服し、弟に家督を譲って出家してしまった(すっげーもめたし、美男と美僧の組み合わせなので男色の噂もすごい立った)。寺院収入を倍増させる実務の鬼だが目利きでもある。何につけ職人選びが上手く、締めるところは締めるが金に糸目を付けないときは凄まじい。おかげで庭は指定名勝、建築物含め未来の文化財が大量に残され世界遺産にも登録された。姫鶴のことは絵の腕含めて尊敬しているので常々依頼をしていたが一度も了承されなかった。
数十年山鳥毛を補佐したが、山鳥毛が大病した際には真っ先に隠居する後押しをしてくれたのも日光だった。姫鶴の描いた頂相(もちろん山鳥毛の賛が入っている)は日光に送られ、それを持って一族の地元の博多に下った。姫鶴のフットワークが軽いので、それぞれ博多と直江津に隠居した後も日本海航路を介して顔を合わせていた。
南泉
山鳥毛付きの若き禅僧。京都生まれ京都育ち。年は離れているもののすぐ上の兄弟子が日光なので大変鍛えられた。未来の天才連歌師だが、うっかり憧れたのが山鳥毛だったせいで若いころは漢詩に取り組んでは「こんなの駄作にゃーー!!」と頭を抱えていた。とはいえ何でも平均以上にこなすし人好きもする優等生タイプ。悲しいかな本人にその自覚はない。山鳥毛の残した日記、書簡、漢詩、賛etcを分類して残したのは南泉の功績。本人も知り合いが多く書簡のやり取りがたくさん残っているので、未来の研究者に大層感謝されている。
山鳥毛に送り出されて一時期姫鶴と全国をぶらぶらする旅に出て見識を深めた。兄貴たちは地方に骨を埋めたが、南泉は旅好きだったものの京都に暮らし京都で亡くなった。
則宗
南朝方の帝のご落胤。遣明船に乗って留学も果たした。山鳥毛、姫鶴、小豆、日光の師。日光が最後の弟子だった。作庭の名人で空間を使った芸術が好きだった。だから能などの演劇舞踊も好き。若き世阿弥へのファンレターも残っている。
近年膨大な山鳥毛日記史料の読み直しの過程で熱烈世阿弥ファンレターと山鳥毛の先代住持が同一人物と判明し学会に衝撃が走った。跡を譲ったあとは奈良に隠居したといわれる。弟子の文字史料が豊富に残っているのに師匠は謎に包まれており、没年不詳、どこで亡くなったかも謎。則宗終焉の地といわれる場所は奈良盆地に何か所も散らばって存在している。
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