川中島の合戦で信玄と謙信の一騎討ちがあったかについては、歴史学的には「分からない」と言うしかないのだそうです。一騎討ちやきつつき戦法は甲陽軍鑑が流布したといわれていますが、この文献も全面的に信頼できる史料ではない。同時代史料がほとんど残っていないため、合戦の実像すらよく分からないのが現状なのだとか。
さて、一騎討ちの事実上の有無はともかく、一騎討ちについて記載がある史料は江戸前期〜中期を中心に何点か残されています。武田視点で言及されているものや、上杉家の公式歴史書(で良いのかしら)は、細部の違いはあれども謙信が信玄と刀を交わしたと伝えています。刀に関する言及は様々で、(長光作の)太刀という漠然としたものを除けば小豆欠け、竹俣兼光、赤小豆粥の三振りに集約されます。どれも現存しておらず、本当にそう呼ばれる刀があったのかすらよく分かりません。
ここで興味深いのは「小豆長光」という名称はどこにも見当たらないということです。また当時の歴史書、少なくともノンフィクションの扱いになるであろうもの(もちろん現代の基準と大きく異なるものですが)に「小豆長光」は出てきません。
では「小豆長光」の初出はどこなのか?と探してみると近松門左衛門の浄瑠璃「信州川中島合戦」(1721)に行き当たりました。
「川中島合戦」において既に「小豆長光」は「謙信の愛刀で信玄の軍配を斬る」という要素が確立されています。「近松浄瑠璃集 下」は注釈が付いているのですが小豆長光の注釈には「長光の太刀が川中島で用いられた」(川中島五箇度合戦記)、「赤小豆粥という太刀」(武辺咄聞書)の引用しかないので、「小豆長光」については近松の浄瑠璃以前には目立った先行史料はないと考えられます。探せばあるのかもしれませんが……。図書館行ってレファレンスサービス受けて来いって話ですね。初出と断言することはできませんが、活字化文献の中では「川中島合戦」が「小豆長光」が登場する比較的初期の作品になるのではないでしょうか。
(以下考察)
「小豆長光」という名称はどこから来たのか。
一つは近松創作説ですが、個人的にはピンと来ない。近世文学専門じゃないですし、そもそも近松の作品をざっくりとはいえ通読したのも今回が初めてなんですが、既に観客がある程度「小豆長光=謙信の愛刀/信玄の軍配を斬った、あるいはそういう刀が存在した」という図式が頭に入っている前提で書かれている印象を受けました。
「小豆長光」の特徴的な点は後世も浄瑠璃を始めとしてあくまでフィクションの中で登場することです。そうするとやはり創作・芸能の分野から生まれた名称が再生産されたと考えるのが自然に思われます。
合戦譚は物語のジャンルで言えば軍記ものです。江戸前期から軍記物語が盛んに語られていそうなもの……講談?となりまして調べてみたら、江戸初期から太平記を語る講釈師がいたそうです。元禄期には軍学書の講釈が流行ったりもしたそうで、そういえば甲陽軍鑑って軍学書の扱いだったし、近松って若い頃に講釈師やってたらしいと思い出したので、講談から小豆長光という名称が誕生したというのもあり得るかなと思っています。
参考文献
文化デジタルライブラリー
『甲陽軍鑑』(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828)
『近松浄瑠璃集 下 新日本古典文学大系92』1995年、岩波書店
『北越耆談』『上杉将士書上』『川中島合戦評判』(『越後史集 天巻』所収、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955117)
『武田三代軍記』(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881523/20?tocOpened=1)
米沢市上杉博物館『特別展 上杉謙信』(2009年)
平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』(上下)2002年、学研M文庫
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